友枝觀水から見た芦屋釜   
高取焼 内ケ磯窯の陶房を開いている直方市を遠賀川が流れているが、20キロ程川を下ると河口に芦屋町がある。

この芦屋町がかの有名な芦屋釜の生産された所で、こんな田舎の海辺の町と不思議に思われるのは充分に推測される。


今でこそ寂れた田舎の町だが、かつては、そう弥生時代後期には日本三大軍港の一つで「岡の津」として有名。

かつての港は長年の土砂の流入でその面影は無いが広大な湾を形成していた。

それでも江戸時代は北前船の寄港する大きな商業港として栄えた。



数年前までは芦屋の海岸には砂鉄があって、磁石があれば簡単に採れていたのだが今年(平成20年)
になって出かけてみたら砂鉄がいつもの所に無いのに驚いた。

地球自身の地勢の変化なのか、芦屋から少し西の岡垣の浜には沢山採れる所があったので行って見たがやはりそこも全く採ることが出来なかった。

又、20年程前だと浜に接する丘の地層には砂鉄の塊さえ在ったのに、もう何処にも無くなってしまっている。

周りの地形にはなんら変化や異常は見られないのに、生物の絶滅のように消滅してしまっている。

まるで、次元移動して行ったかのよう。

という事は、もう芦屋釜を復元するのは無理という事になる。




砂鉄なら何処のでも同じと思われるかもしれないが、芦屋が芦屋釜たるのは砂鉄に含まれる異種金属の含有量に他の砂鉄とは極端な差があったのである。

ある時たまたま見ていた本に、日本の砂鉄の産地ごとの金属分析表があったので表の中の数字を追っていたら、芦屋と他との明確な違いを見つけた。

それは、チタン の含有量。

通常は2・3パーセント前後で多くても約4パーセントで、ひとつだけ7パーセントがあったがなんと芦屋は 17パーセント で驚異的な量が入っていた。

チタンは今日とても持て囃されている稀有金属の一つで、極めて高価なもので性質も特異的なものとして知られている。

一般的には、軽量・錆びない・硬いで知られているが、釜の素材として観ると確かに理想的であるのが分る。



なにせ鉄の釜、少しでも軽いにこした事は無い。

鉄の比重7,8に対してチタンは4,7。

約6割の重さ。

チタン製のバイクのパーツなど手に持ってみるとその違いにびっくりする。

まるで、重量が無くなったかのようにさえ感じる。


ただし、チタンの含有量が多いからといっても、所詮は鉄が主成分なので200年も使い続ければさすがの芦屋砂鉄を使ってたものでも錆により穴が開き使用不能となる。



その上、室町後期になると侘茶の流行で釜の重量そのものの軽量化が要求され、より軽く、より薄肉化が追求された結果、初期に比べて耐久性に劣る事となった。


この軽量化という点では外観では環付きに大きな違いが見られ時代の特徴がよく表れている。


芦屋釜初期の鎌倉時代のには、実に堂々とした大きくて立派なのが付いているが、これに見慣れると室町時代後期の小さな環付きの付いた芦屋釜は繊細というか華奢な感じがして物足りない感が否めない。

室町後期では強度的に許容範囲ぎりぎりまで小さくし、軽量化を計ったと思われる。

よって鎌倉時代のような力強さや鬼面の表情の面白さは見られなくなっている。



又、伝世される多くの国宝を含む芦屋釜は釜底を後世になって取り替え修理してあるが、もちろん本来の芦屋砂鉄で作られた釜底のものでは無い。

手元の初期の芦屋釜は実用性を重視された作りのためか、底の部分の肉厚はたっぷりと有り、600年以上も経つのに 「うぶ底」 のままなのに今でも普通に使用出来る。


これは、チタンを多量に含む芦屋釜特有の錆びない性質があるから600年前のでも使用に耐えるのであって、他の産地の砂鉄を使えばとっくに使用不能というか、形すら残っていないだろう。





又、チタンは硬く強靭な性質を持つので、指で釜の縁を弾くと実に澄んだいい音がする。

古い程、いい音がするとされる。

これは、日本刀と同じ現象で古い程、金属の精錬技術が高いからだとされている。


つまり、時代と共に技術が下がっていったよう。

この硬い性質が釜を火にかけて湯を沸かした時に聞こえてくる鈴が鳴るような音 「松籟」 に違いが出る事になる。


この点にこだわれば、後世になって芦屋釜の底を貼り変えたほとんどの芦屋釜は素材の違いによって本来の音を聞く事は出来なくなっている事になる。

又、貼りかえるには釜底と胴体を漆で接いだとされているが、それだと、釜底の微妙な振動が漆で吸収遮断されるので、この点からも修理した芦屋釜は本来の美しい音色はなくなっていると言える。

よって、芦屋以後の後世では、素材そのものの質の低下により「鳴り金」 などを釜の底に付けて故意に音を出さねばならなくなってしまったのであろう。



要約すると、軽い事、錆びない事、音色が綺麗な事 に芦屋砂鉄を使った芦屋釜の素材による特色が集約される。


ところが、チタンは溶かす時の融点が鉄の1300度よりも遥かに高い1600度なので、極めて高度な技術が必要となるのは今日でも変わらない。

よって、今日に於いて、芦屋の砂鉄以外のを使って、いかに100パーセントの砂鉄だけでで作ったとされても、「古芦屋」 には遠く及ばないことになる。




尚、芦屋以外の土地ではチタンを17パーセントも含む芦屋砂鉄を熔かすのは当時では物理的に無理がある事にに気付いたが追って後述する。
友枝觀水と芦屋釜との歴史的関係

直方で高取焼 内ケ磯窯を開いた25・6歳の頃、初めて芦屋町の遠賀川河口に立った時、まだ芦屋釜には殆ど関心も興味もなかったがヤマハのヨットハーバーがある河口の河岸から対岸の民家の風景を見ていると、何故か自分でも不思議な程、風景に懐かしさみたいな安堵感みたいなものが湧き揚がってきて驚いた不思議な思いをしたのをあれから30年以上も経つのに忘れる事が出来なかった。

そして芦屋の地名の「山鹿」に言いも知れぬ妙な感覚がずっと在った。

ただ、不思議な感覚をおぼえたという記憶でとどまっていた。



ところが、今から数年ほど前、ひょんなことから、錆に覆われた茶釜を手にした。

手元にかかえた茶釜にある「霰の州浜」の模様を見て、「芦屋だ!!」 と直感した。

その時は芦屋釜の事はたいして詳しくはないし、ましてや今まで、この手で触れた事も無かった。

かつて見たのはガラス越しに展示されたのだけ。

しかも、かつて見たのとは模様が違うのに、でも、なぜか、「芦屋だ!!」。


でもそれほど芦屋釜に関心が在るわけでも無く、茶室があって茶を嗜む環境でもないので、使う事も無く数年が経ち今年になってようやく手入れをしたくらいのもの。




ところで、私の 「友枝」姓 は豊前の国を一時治めていた「宇都宮氏」の一派とは聞いていたが、それ以上は親族からは何も教えてもらった事は無かった。

せいぜい家来の内の一人くらいの事だろうとぐらいにしか思っていなかった。



ところが、「宇都宮氏」 四代目の子の一人が「友枝氏」を名乗り「分家」とは、去年になって他人から教えられていた。

つまり家系にはあまり関心がなかったが、インターネットで何気なく、私の姓「友枝氏」や「宇都宮氏」で検索してみた。



ところが、「宇都宮氏」 豊前を治める前、一時 芦屋 を治める とある。

ビックリした。

そして、平家滅亡後、幕府の命により、関東より下り、芦屋を治めるが、当時の慣習により、地名から「山鹿氏」を名乗る

これにもビックリした。


こんな事、親族は誰も知らない内容。


友枝觀水 62歳になってやっと若い頃にあったデジャブーに近い不思議な感覚が理解出来たのと、芦屋釜が縁あって来たのが分った。

今になって気づいたが、あのかつてデジャブーに近い感に襲われたのはかつての「山鹿」氏の居城のすぐ下の位置。

かつての居城跡は城山公園として開放されている。


そして、手元の釜、いかにも芦屋釜初期を思わせる作風に満ちている。

となると、鎌倉時代!!。



なんと600年以上も経つのに、どういう使われ方をされたのか 「うぶ底」 となっている。

「湯口」(熔けた鉄を流し込む注ぎ口)も ちゃんと伝承される「芦屋釜」の技法にかなっている。

鬼面の環付も侘茶流行以前の様式で力強くて大きくて胴の下方に付いている(後期になると小さく上方に付く)。

鬼面の直上にも模様が在り、芦屋釜特有の挽き回しの型成形で作られているのが良く分る。

釜の縁を指で弾いた時の音も室町後期とされる芦屋釜よりも澄んだ良い音がするのを確認した。

胴の模様も竹と梅で、松が無いのも初期の芦屋釜らしい。

蓋は無いが、松は蓋とつまみで表現されていたと推測される。

胴には 「羽」 が完全に付いている侘茶以前の様式がそのまま残っている。

全体の雰囲気は力強くかつ気品があるもので、特に梅の花の模様などは丁寧な仕事振りでとても600年以上も前のものとは思えない存在感がある。



友枝觀水が観た芦屋釜の歴史考察
芦屋釜が衰退した原因には、「大内氏」の衰退が原因とされているが、当時国内では圧倒的人気を得ていた芦屋釜が領主が変わったからといって衰退するはずは無いと考える。

確かに大内氏が九州を含む一帯の領主ではあったが、実際には芦屋地域に関しては「山鹿氏」及び山鹿氏の子供が分家して後勢力を持った「麻生氏」が治めていたわけで、「大内氏」でなくても歴史的必然により芦屋釜は存在したと観る。

当時、全国には多くの鋳物産地があったし、京都には「釜座」さえあったのにわざわざ辺境の九州芦屋まで京都の寺が注文してくる状態だったので領主が誰であろうと政治には関係なく事業としては存続できたはず。

では、まず、なぜ、芦屋釜を当時の茶人が欲したかと言う点に絞ってみよう。


芦屋釜が芦屋釜たる圧倒的な理由があった。



@ 国内で唯一
17パーセントのチタン合金を含むが故の圧倒的な軽さ。

「うぶ底」 の芦屋釜と同じ容積の釜を普通の砂鉄で作り、実際に持ってみれば判明するはず。

芦屋釜の体感出来るその圧倒的な軽さに当時の茶人は感動したと思われる。

鉄とチタンのこの違いを感じるには、チタンのネジを手に取って同じ大きさの鉄のと比較してみてください。

その余りの違いに驚嘆の声が思わず出るのを推測出来ます。

チタンネジはインターネットで買えます。

小さなネジでさえ感じる圧倒的な重量差、釜みたいに大きくなればその違いは感動ものだったはず。



A 錆色の美しさに格別の美意識を見出した。

普通の鋳物鉄の錆は結構深くて錆が美しいとは思えないが、チタンの含有量が多いとチタンそのものは錆びない性質を持つために錆の進行が極めて遅く、錆びても釜の表面にうっすらと粉を振ったようになり、布で軽く拭くだけで取れるしその錆びた色自体に独特の美しさがあると当時の茶人は発見し気付いたと思える。

国宝の芦屋釜にも釜底を修理したのがあるが、この底の部分は芦屋砂鉄を使っていないので胴体をなす上部の芦屋砂鉄との鉄の色に格段の違いがある点に注目してみれば分りやすい。

底の部分の鉄色に美しさは感じられないはず。

現代作では錆止めとして茶釜の内側を含む全体に漆を塗っているが当時はそのまま楽しんだのではと推測する。

もっとも、お茶に含まれるタンニンによる、いわゆる黒染めはなされていた可能性は在るが、鎌倉時代を含む初期の頃はピカピカに磨いて使用されていたとの説がある。

が、そうなると、芦屋釜でなければ錆びやすくて大変だったのでは。

芦屋ならピカピカに磨いてもあくる日になってもそんなには光が鈍くなっているとは思えないが、普通の砂鉄の釜では光が鈍くなる以上に梅雨時など赤い錆びすら浮かんでいたはず。

芦屋の砂鉄の生産量が落ち、必全的に芦屋釜の生産が減り、入手困難になって、芦屋以外の砂鉄を原料とした釜では、ピカピカに磨いた状態を保持することが不可能となり、鉄の錆びを逆に美なるものとして認めるしか方法がなくて、「侘び錆び」 の「錆び」 が 新しい美意識として流行ったと推測する。

何時の頃からかは分からないが漆で錆止めとするようになったが、鉄の表面に漆を塗ってしまっては鉄錆の美しさは味わえないことに茶人達は気付いていないのが不思議。

現代作の茶釜の表面には漆を塗らなければ、ただ汚い錆色に覆われただけで美の世界とは無縁の世界かも。




ところが、現代でも今ならまだ芦屋砂鉄を使った茶釜を作っておられる方がいます。

私が住む直方市で芦屋釜再興に取り組んでおられる山本利行氏です。

新作の芦屋釜のうっすらと錆びた錆色は格別の美しさがあります。

以前は漆を塗っていましたが、現在では漆は使っていませんので本来の錆色を味わえます。






B 湯が湧く時の音に「松籟」という名を付けて楽しんだのだが、チタンを大量に含む芦屋釜はその「松籟」においても格段の美しさを誇っていたと思える。


チタンは結構硬い性質を持つために現在では多方面に使われているが、その硬さが松籟に独特の音色を醸し出していて芦屋釜は「松籟」においても格段の差があったと思われる。

試しに、「うぶ底」の芦屋釜と底を貼り変えた芦屋釜を実際に火に掛けて湯を沸かして「松籟」を聞き比べてみると面白いかも。



C 模様の美しさ。

手元の鎌倉時代と思える芦屋釜と室町後期のを比較すると鎌倉時代の方が絵に情緒が感じられるが後期になると絵に味わいが希薄で絵の情緒が下がっているのが在るのが感じられる。






以上のような特色を持っていたのだが、市場原理の点からは芦屋釜が衰退するのに他の産地との競争があって負けたとは考えられない。


その証拠に、重文の殆どが芦屋釜であるのを観れば充分。

第一、未だ現代人にも芦屋釜を超えられないでいるし、当時にはどこにも芦屋釜に勝る砂鉄を有する競争相手はいなかったのだから、大内氏とは関係無いところに衰退の原因が在ったのではと友枝觀水は観る。




それは、このページの冒頭に記してある現象の大規模な現象が起きたと推測する。



それは、砂鉄という資源の枯渇。


つまり、砂鉄を掘り尽くしてしまったのが芦屋釜衰退の最大の原因と観る。

現在、芦屋に於いて砂鉄が採れないから昔も無くて、他所から砂鉄を仕入れて芦屋釜を作ったと考えるならそれは余りにも短絡的で思慮に欠けると言える。

実際、ほんの数年前までは、芦屋海岸に行けば、私が釉を作るのに必要とする砂鉄は簡単に採集出来たのに、もう何処にも無い。

砂鉄が消えてしまっている。


誰かが採ったから無くなっているのではなく、消えてしまっている。

かつて砂鉄の縞模様があった砂浜を掘ってみても砂鉄は無かったし、砂鉄で真っ黒だった波打ち際にも全然無いし、そこを掘っても全く無い状態。

砂浜が砂鉄で縞模様をなす場所はそこを掘れば下側も砂鉄と砂の縞模様が在った。

しかし今はもういくら掘っても、ただ、砂だけがあるのみ。

海岸への小さな小川が運ぶ砂鉄が織り成す流れる縞模様も今はもう見られなくなってしまっている。

一体、何が起きたのか。??



これは何を意味するのか考えてみた。


通常では起こり得ない状態は、単なる自然現象とは観ないのが友枝觀水流。

今年になって知った、芦屋から全く砂鉄が消えてしまっているのは、私への啓示と観れば、つまり、我々を超えた存在による何らかの意思表示と観るのがよろしいかと。


という点で考えると、かつても大規模な同じような現象が在ったと推測する。

かつて盛んだった砂鉄の採掘量が時と共に減少し芦屋釜の生産量に影響を及ぼす事態にに入ったのではと。





私が驚いたように、かつても、ある日、豊富な砂鉄が消えて生産不能となったのでは。



もしくは、徐々に採れる量が減ってしまい、需要に応じきれなくなり、その分、京都の釜座の仕事が増えたのではと。


当時の芦屋は港としても栄えていたので、他所から砂鉄原料を仕入れる方法もあったはずだし、実際に仕入れて作ってはみたのは充分に推測出来るが、それでは満足なのは出来なかったはず。

芦屋で採れる砂鉄、もしくは遠賀川流域で採れる砂鉄でこその芦屋釜だったのだから、砂鉄が無くなれば、そこで終わりという事になる。

大内氏滅亡前後頃に芦屋釜も作られなくなったのは事実だが、時を同じくして砂鉄が採れなくなったのではと推測する。

たまたま、大内氏滅亡の頃にと時期が重なりはしたが、大内氏が繁栄していたとしても、やはり、芦屋は衰退したのではと推測する。

芦屋に砂鉄が無くなったから各地砂鉄産地に離散した職人によって芦屋釜風のが又各地で作られるようになったと観る。


芦屋で引き続き砂鉄が豊富にあったのなら、たとへ大内氏が滅んだとしても釜元の一軒くらいは引き続き生業していたはず。




以下の写真は芦屋海岸での砂鉄が黒い縞模様となっているかっての様子。
この二枚の写真は砂の表面を削ると出てくる縞模様。
砂鉄が多いとこんなに表面が黒く覆われていた。

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